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恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
彼はもう三時間も前から紋附羽織に袴といふ恰好で、八畳と十畳とを合せた広さの上り店の間に控へていた。彼の坐つている場所は大きな欅けやきの塗り柱の前で、そこには以前古風な帳場格子がどつしりと据ゑられ、当主の文太郎に家督を譲るまでの何十年間をこゝに坐り通し、帳つけをし、入つて来る人達の挨拶を受けたものだつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられていたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それは正まさしく一種の死だつた。
「これを御大典のお祝ひ日に着るんですつて」
と、加藤巡査は無意識に汗の滲み出た額のあたりを指でこすりながら、心配さうに大小の焚火を見やつた。彼の声はしはがれていた。
「どこの帰りかね」
徳次は何かしら話に困つていた。で、彼は真面目な熱心な目つきで犬を眺めた。ところが、この犬まで普通のものとはちがふやうに思はれた。それは確かに「医者の犬」だつた。短い白毛の生えそろつた地はちつとも汚れていなかつた、茶斑の所は艶があつて上等の織物の模様みたいであつた。そして、全体に清潔でゆつたりしていた。
「えらい評判ですなあ。けつこうですよ。ぜひ話しに来て下さい。わたしはこんなにいつもひまですからな」
「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」
「もう、だいぶようなつたですわ」
「あの人は来まいて」
「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀が眩まばゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはいるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えている彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めているもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つているのだらう。
二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。